2013年8月27日火曜日

色を見る、色を楽しむ。-ブリヂストン美術館コレクション展-

ちょっぴり時間が経ってしまったのですが、先日ブリヂストン美術館に行ってきました。ここ数日、東京の猛暑日はひと段落し過ごしやすくなりましたが、いやぁ、あの日は暑かった…





■ 天才の宿命


今回、メインビジュアルになっているのが、マティスの「ジャズ」シリーズの『イカロス』。何だかモダンでオシャレ。楽しげに見えるこの作品ですが、実はこの作品の誕生の背景には天才の宿命ともいうべき過酷なストーリーがあります。


     アンリ・マティス『イカロス』(版画集「ジャズ」より)1947年



『帽子の女』に代表されるように、豊かな色彩の油彩画こそが彼の真骨頂。しかし、十二指腸の手術による体力の低下、妻子がナチスの尋問と拷問を受けたことによる心労などによって、1940年代に入るとマティスはそれまでの油彩画が描けなくなりました。画家にとって筆を持つことができなくなるというのはまさに致命的な出来事です。


アンリ・マティス『帽子の女』(1947年)
(サンフランシスコ近代美術館/サンフランシスコ)


(※この作品は展示されていません)


そこで彼は、色紙をはさみで切り抜き、紙に貼付けていくという新たな創作を始めます。もともと彼は、油彩画の構想を練る際に、色紙を使って色彩を検証し、それからキャンバスに彩色していくという方法を採っていました。

確かに、制作に数ヶ月もかかる油彩画に比べると体力的な負担は少なく、何といっても形が気に入らなければすぐにやり直すことができます。彼は切り紙の制作に熱中しました。

耳が聞こえなくなったベートーベン、目が見えなくなったモネ、右半身の自由を奪われた長島茂雄など、天才的な芸術家やアスリートが宿命ともいうべき残酷な運命に晒される例は少なくありません。


■ 生まれ続ける可能性


そこで絶望して人生を終わりにするのも、新たな境地を切り拓くのも、自分次第。マティスは、最晩年にして「色彩」という自らがこだわり続けた原点に立ち返り、新たな表現方法を開拓したのです。

今年5月、登山家の三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト登頂に成功したことは大きなニュースになりました。今、CMでもやっていますが、60歳で次の目標を失い、65歳で山に登れなくなり、それでも奮起して70歳と75歳でエベレスト登頂に成功しています。

病気になろうが、年をとろうが、そんなことは関係なく、人は生きている限り、というか、「目標に向かって」生きている限り、可能性は生まれ続けるのだと教えられます。


■ 人は「形」よりも「色」に反応する


さて、今回のサブタイトルは「色を見る、色を楽しむ。」

みなさんが絵を見るとき、何が一番最初に目に飛び込んできますか?
造形でしょうか、それとも…。実は、人間がモノを見たときにまず最初に認識するのは色彩と言われています。これは危険を察知する人間の本能と関係があります。

信号機を思い浮かべてみてください。赤、青、黄といずれも丸です。もしこれが、すべて同じ色で、丸は進め、三角が注意、四角が止まれ、だとします。なんだか、一瞬迷ってしまう気がしませんか。


■ 西洋絵画のヒエラルキー


今でこそ色彩の重要性が科学的にも研究されていますが、実は西洋絵画においては長い間、色彩はそれほど重要視されていませんでした。

何を最重要視していたかというと…

それはテーマ(主題)。西洋絵画の世界では、長い間厳格なヒエラルキーが存在し、その頂点に君臨するのが聖書や神話をテーマにした歴史画でした。以下、肖像画、風景画、静物画と続くわけですが、強引な言い方をすれば、「どう描くか」よりも「何を描くか」がもっとも重要とされていたのです。


レンブラント・ファン・レイン『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』(1826〜28年)



■「色を楽しむ」ようになったのは意外にも…


色彩に重点を置くようになったのは19世紀ロマン主義の巨匠、ドラクロワあたりからでしょうか。といっても、サロンからはなかなか認められず、ボロクソに酷評されていましたが。

その後、印象派の時代になり、色彩全盛の時代を迎えるわけですが、ここにきてようやく難しい知識がなくても感覚で鑑賞できる作品が多く生み出されるようになりました。すなわちテーマが、日常により近い題材になったのです。

日本人に印象派の絵画が人気があるのはそのあたりに理由がありそうです。つまり、作品の背景となるキリスト教の知識やこのアトリビュートは何を表す、など考えなくても感覚で鑑賞ができ、色がきれいだとか、この風景が好きだとか、個人の感性で楽しむことができる作品が多くあります。

長い絵画の歴史を考えると、「色」を楽しむ、いやそれ以上に一般人が絵画を楽しめるようになったのは、たかだかここ100年くらい、意外と最近の話なのです。(ナポレオンが1793年に王宮だったルーヴルを美術館として開館しましたが、一般民衆にはまだまだ縁遠い存在でした)

最後になりましたが、今回の企画展では所蔵の印象派名画が数多く展示されています。


クロード・モネ『黄昏、ヴェネツィア』(1908年頃)




ピエール=オーギュスト・ルノワール『すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢』
(1876年)





お子さんの夏休みの自由課題に翻弄されるお母さん、今ならまだ間に合いますよ〜!


色を見る、色を楽しむ。
ールドンの『夢想』、マティスの『ジャズ』…

          2013年6月22日(土)−9月18日(水) ブリヂストン美術館
      
          http://www.bridgestone-museum.gr.jp/exhibitions/




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2013年8月15日木曜日

The color story -Magenta-

日本列島は記録的な猛暑で、毎日どこかの街が40℃を越えているという始末。みなさま、夏バテなどしていませんか。

お盆休みはいま真っ盛り、私は全然休みじゃないのですが、夏休みムードが高まって、都心もなんだかゆるっとした感じでなかなかよいものです。

暑い暑いと言いながらも実は夏が大好きな私。厳密に言うと、夏が好き、というよりも夏休みが好き、という感覚に近いのですが…。

毎年、この時期になると必ず読む本があります。それが『悲しみよ こんにちは』。言わずと知れたフランソワーズ・サガンの18歳のデビュー作にして最高傑作です。

1954年に発表され、瞬く間に世界中でベストセラーとなりました。のちにジーン・セバーグ主演で映画化もされ、「セシルカット」と呼ばれたベリーショートは大ブームに。



しかし、『ティファニーで朝食を』と同様に(4月10日付記事『The color story -Black-』をご参照くださいませ)映画についてはちょっと…。

第一、原作では「若く(といっても40歳ですが…)美貌の父親」とあるのに、父親であるレイモン役のデイヴィット・ニーヴンの眉間にはシワが何本もくっきりと刻まれ、寂しげな頭髪といいお腹周りといい、40歳はおろか50歳にも60歳にも見えてしまうというところで大減点。

唯一、イメージを損なわなかったのはアンヌ役のデボラ・カーでしょうか。


左からレイモン、セシル(役名)


左からエルザ、セシル、アンヌ(役名)


この本を、今はもうなくなってしまったけれど子供の頃から家族で別荘として使っていた避暑地のプールサイドでよく読んだものです(あと、マルグリット・デュラスの『愛人(ラ・マン)』ね。…何て子供だ!)

物語も南仏の夏休みが舞台ですが、そんな思い出も、夏にこの本を手に取らせるのです。

■ 「悲しみよ こんにちは」のあらすじ


では、本も映画もご存知ないという方のためにあらすじをご紹介すると…

主人公セシルは17歳。母親を早くに亡くし、女好きで遊び好きだが魅力的な父親とパリで気楽に暮らしている。ある夏、南仏に別荘を借りて、父親と、父の愛人の若い女の子エルザと3人で平和な夏休みを過ごしていた。

そこに、亡き母の友人で、聡明で洗練された大人の女性、アンヌがやってくる。これまでお世辞にも頭がいいとは言えない若い女の子たちばかりと遊んでいた父親が、この少し冷たいが理知的で美しい大人の女性アンヌに心惹かれ、一夜にして結婚することを決めてしまう。

アンヌの洗練された美しさに憧れを抱きつつも、父親を独占したい気持ち、勉強を強要したり、恋人との逢い引きを咎めるアンヌにいつしかセシルは反感を抱くようになる。

自分の恋人と父の愛人だったエルザを使って二人の結婚を妨害するのだが、その結果アンヌを死に追い込んでしまう…というお話。

■ もう一人の主人公


主人公はセシルですが、いつの頃からか、この物語にはもうひとりの主人公がいるような気がしはじめました。

多分私自身が20代の後半にさしかかり、ひとつの時代(人はそれを青春というのかもしれない…)が終わり、セシルというよりはアンヌの年齢に近づきつつあることを自覚したときのような気がします。

■ 人間は「色の存在」


ところで、色で人のタイプを分類するとしたら、アンヌは何色でしょうか。

英語で人間はHumanといいますが、もともとはラテン語でHueは「色」、manは「存在」、つまり「色の存在」というのが語源です。

チャクラ、という言葉を聞いたことがある方も多いと思いますが、人間の身体にはそれぞれの部位を司る色があります。

すなわち、私たちは一色だけでなく、様々な色をもった存在なのです。しかし人によって、またはその時の体調、精神状態によって、どの色が強く顕われているか異なります。

■ マゼンタタイプのアンヌ


アンヌは口うるさく、まるで道徳の教師のような鬱陶しさです。が、実はそれは生真面目で、少女のような純粋さと繊細さの裏返しでもあるのです。

あなたのためよ、というセリフをアンヌはセシルに向かって何度も口にしますが、往々にしてこういう言葉は本人のためなどちっとも考えておらず、相手に対する不満を面と向かって吐き出すための口実でしかないものですが、彼女の場合は意地悪ではなく本当に良かれと思って諭している気がしてなりません。

彼女は責任感が強く、与えられた役割、すなわち母親という不慣れな役に忠実であろうとし過ぎたのです。

愛情深く、繊細であり、しかし時としておせっかい、というレッテルを貼られてしまう。それが、マゼンタタイプの人です。

アンヌはまさにその典型といえるでしょう。


そういえば、旧訳の背表紙の色がマゼンタ…



■ 読むたびに新たな発見


15歳の頃から毎年読み続けていてセリフもほとんど暗記しているほどなのに、読み返すたびに新たな発見があるというのは、やはり作品のもつ力でしょうか。

無邪気な残酷さでアンヌを追いつめた瞬間の、セシルの後悔を語った部分です。

「…彼女は泣いていた。私は突然そのとき、自分が観念的実在物にではなく、生きた、感じやすい人間を攻撃したのだということを知った。彼女はきっと少しはにかみ屋の小さな女の子だっただろう。それから少女になり、女になった。彼女は四十を過ぎていた。そして孤独だった。一人の男を愛し、彼と共に十年、あるいは二十年幸福でいようと希望していたのだ。それなのに私は…(後略)」(『悲しみよ こんにちは』サガン著 朝吹登水子訳 新潮文庫より抜粋)


何年も見逃していた、胸に迫る一文です。


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