2014年3月6日木曜日

モネ、風景を見る眼 -19世紀フランス風景画の革新


会期の終わりが近づくと、平日であろうが、冷たい雨の日であろうが、なぜか美術館は混むものです。そして、二重になった人々の頭の隙間から名画を必死にチラ見しながら「もっと早く来れば良かった…」と後悔するのです。

今回訪れたのは、モネ展。昨年の7月からのポーラ美術館に次いでの巡回展です。ポーラ美術館だって(場所は箱根で少々距離はありますが)何度も行っているのでそれほど面倒なことではないのだけれど、ここまであたためてしまった私。


3月だというのに、気温6℃!寒い!




というのも、この展覧会は海外から作品の貸出しを受けたものではなく、主催する国立西洋美術館とポーラ美術館が所有しているものが中心なので、何となく「いつか見られるさ」という気がしてしまっていたのです。

しかし「いつか」は自分が動いてチャンスをつくらなければ、永久に来ないもの。そもそも、所蔵はしていても作品保護の関係で常に展示しているとは限りません。むしろ有名どころはこうした機会でないと見られない場合が多いのです。


■ 印象派はモネから生まれた


1894年、パリのカプシーヌ大通りにある写真家ナダールのスタジオで、当時の画壇(サロン)に認められなかった新進気鋭の画家たちが集まり、無審査の展覧会を開きました。それが、第一回印象派展です。

このとき、モネが出品していたのが『印象、日の出』(1872年/マルモッタン美術館/パリ)です。この作品を見た新聞記者が「これは単なる印象でしかない」と酷評したことから、このグループは「印象派」と(やや皮肉を込めて)呼ばれるようになりました。(2013年11月24日付記事『印象派を越えて-点描の画家たち-』を併せてご参照ください)


その記念碑的な作品『印象、日の出』に非常に良く似た作品がこちらです。


クロード・モネ『セーヌ川の日没、冬』(1880年)
(ポーラ美術館)


ただし、こちらは日の出ではなく日没なのですが。


■ 工業化がもたらしたもの


印象派を語るに欠かせない重要な要素は、19世紀の工業化がもたらした近代化です。パリ近郊にも工業地帯が現れ、蒸気機関車の発達は人々にレジャー文化をもたらしました。そしてそれは画家にも大きな影響を与えました。


クロード・モネ『サン=ラザール駅の線路』(1877年)
(ポーラ美術館)


モネが描いたサン・ラザール駅で最も有名な作品は、
オルセー美術館にあります。
もくもくと広がる蒸気を巧みに表現した作品です。



そして、19世紀の半ばにチューブ入り絵の具が発明されます。それまでは、絵の具は作り置きが難しく、豚の膀胱を原料とした革袋や、注射器のようなガラスに入れたり、試行錯誤が繰り返されますが、なかなか扱いが難しかったのです。

錫製の使い捨てチューブ絵の具が発明されたことによって、画家はアトリエを飛び出して、戸外で作品を制作することが可能になりました。蒸気機関車で移動して、郊外の景色を描くことも夢ではなくなったのです。


ウジェーヌ・ブーダン『トルーヴィルの浜』(1867年)
(国立西洋美術館)


モネの師匠ブーダンの作品。
上流階級の人々が海辺で寛ぐ様子を描いたもの。
現代のビーチの風景とはまったく異なる光景ですね。


アカデミー(画壇)には古くからヒエラルキーが存在し、もっとも権威あるテーマが宗教画と歴史画で、風景画は取るに足らないものという認識が根強くありました。

印象派の絵画にも様々なテーマがありますが、とりわけ風景画の評価を後世において高めたことは大きな功績のひとつであると言えます。


クロード・モネ『雪のアルジャントゥイユ』(1875年)
(国立西洋美術館(松方コレクション))


先日の大雪を思い出させます。



クロード・モネ『グランド・ジャット島』(1878年)
(ポーラ美術館)

 グランド・ジャット島は、週末になると多くの人が集まる
人気のレジャースポットでした。スーラの点描画が有名です。



クロード・モネ『花咲く堤、アルジャントゥイユ』(1877年)
(ポーラ美術館)


夕方に川べりを散歩していたら花畑を見つけた、というような
ノスタルジックな気持ちにさせる一枚。
川の向こうには工場の噴煙が。


■ 移ろいゆく光、そして影


印象派の画家たちが、キャンバスに再現したかったもの。それは光と影でした。特にモネは一日の間で同じ場所でどのように光の変化が現れるか、実験的な作品をいくつか残しています。積みわらをテーマにした作品群もそのひとつ。朝から夕方まで、そして季節によって刻々と変化する積みわらをまるで連続写真のように描いたうちの一枚です。


クロード・モネ『ジヴェルニーの積みわら』(1884年)
(ポーラ美術館)




 ■ 松方コレクションとは


さて、まずはモネの作品を中心にじっくりとご覧いただきましたが、クレジットにある「松方コレクション」とは一体なんなのでしょう。

川崎造船所の社長、松方幸次郎(1865-1950)は、二度にわたり首相を務め日銀の創設などで知られる明治の政治家・松方正義の三男として生まれました。

豊富な資金を元に次々と名画をコレクションし始めますが、折しも東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)には西洋画の学科が設けられたものの、本物の洋画に触れたことがほとんどない学生にとって秀逸な作品を制作することは至難の技でした。

そこで松方は、ロンドンそしてパリに渡り、名画を買い漁ります。やがて、松方がゴーギャンが好きだと言えば、パリの画商たちはヨーロッパ中を駆け巡ってゴーギャン(ゴーガン)を仕入れる、という現象まで起こります。


ポール・ゴーガン『海辺に立つブルターニュの少女たち』(1889年)
(国立西洋美術館(松方コレクション))



そんな中で松方が出会ったのが、モネでした。モネはジヴェルニーのアトリエ兼住居に、眼を見張るほど素晴らしい作品を多数所有していましたが、決して手放そうとしませんでした。

しかし、松方は、「日本で美術を学ぶ貧しい学生たちのために作品を譲って欲しい」と懇願し、交渉した結果、なんと18点を譲り受けることが出来たのです。


クロード・モネ『睡蓮の池』(1899年)
(ポーラ美術館)


モネは終の住処となるジヴェルニーの邸宅に
藤や芍薬などを植えた日本風の庭を自ら作り、
浮世絵のコレクターだったこともよく知られています。


ところがその後、会社の経営不振からコレクションは散逸し、第二次世界大戦でロンドンに残していた作品は焼失、パリに残していた作品は敵国財産として接収されてしまいます。

二度と戻らないと思われたコレクションでしたが、1951年のサンフランシスコ平和条約の調印後、首相の吉田茂はフランス政府にコレクションの返還を求めます。

フランス政府は、コレクションを所蔵、公開する国立美術館の設立を条件に、返還を認めました。こうして、1959年、上野に国立西洋美術館が誕生したのです。

返還が容易に認められた背景として、ベトナムからの撤退などでアジアに於けるフランスの存在感が揺らぎ始めていたため、フランスはその存在感をアピールする必要がありました。

こうした政治的な思惑がありながらも、松方のコレクションが基本となり、国立西洋美術館は現在5,600点以上の作品を擁する国立美術館へと成長を続けているのです。


ピエール・オーギュスト・ルノワール『木かげ』(1880年頃)
(国立西洋美術館(松方コレクション))


ルノワールの作品にしては珍しい無人の風景画です。


クロード・モネ『舟遊び』(1887年)
(国立西洋美術館(松方コレクション))

人物と、水面に映る影の構図が絶妙。


クロード・モネ『睡蓮』(1916年)
(国立西洋美術館(松方コレクション))

 
モネが生涯で描いた睡蓮モチーフの作品は200点以上。
こちらは昭和37年以来、門外不出となっている作品。


モネと国立西洋美術館、いや日本の西洋美術の歴史とのつながりを体感しに、ぜひ今週末は上野へ!


■ おすすめミュージアムグッズ


…と、ここで新コーナー(?)、おすすめミュージアムグッズをご紹介します!

今回はやはり睡蓮モチーフがメイン。中でもグッズの王道、クリアファイルがおすすめ。A4クリアファイルが2種類あります(シングルタイプ)。あとは『散歩』または『舟遊び』モチーフのA5ノート。私は『散歩』を選びました。



A4クリアファイル 各税込¥400
     A5ノート 税込¥483


ミュージアムショップで合計¥3,000以上購入すると、左下のバッグがもらえちゃいます。(数に限りがあると思われますので、ショップでご確認ください)



図録 税込¥2,300

写真では分かりにくいのですが、
庭園をイメージしているのか濃いグリーンです。
図録も余裕で入ります。質感は、おまけなので…


※ 在庫、価格の詳細につきましてはショップに
お問い合わせください。




モネ、風景をみる眼
19世紀フランス風景画の革新


2013年7月13日(土)−11月24日(日)終了
ポーラ美術館(箱根)


2013年12月7日(土)−2014年3月9日(日)
国立西洋美術館(東京)

※3月7日(金)〜9日(日)は午後8時迄開館!
(入館は30分前まで)
お見逃しなく!!


      

       


そして、モネは睡蓮ばかりではありません!なんと今年6月に修復を終えたあの名画が、ボストンからやってきます!



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2014年2月18日火曜日

ラファエル前派展

■ 女の人生


先日、学生時代の友人の結婚が決まったので、お祝いのため仲間たちが集いました。仕事に、子育てに、と日頃慌ただしく過ごしている我々はなかなか人数揃って会うことが難しいのですが、この日は総勢5名の、久々に賑やかな女子会となりました。

女5人が集まれば、どうなるかはご想像の通り。絶え間なく喋り続け、昼12時の集合から気づけば夕方4時。「4時迄のお席です」とお店のお兄さんに席に通されたときは一同「4時ぃ?そんなに長くいませんよ。ハッハッハ!」と答えていたのが、「あの〜、ラストオーダーです」の声に「えっ?今何時なの?」と驚き慌てる始末。

話題は自然に、同級生たちの消息へ。実は○○ちゃんは学生時代からこんな努力をしていて、今こうなっている、とか、思わず「へえ〜!やるね!」と、見えないところで色んなドラマが存在していたことが嬉しい驚きでした。

そして何よりも励まされたのは、そこに集ったメンバーひとりひとりが本当に素晴らしい人生を送っていたこと。

呑気なお嬢さんばかりの学校だと思っていたのに、仕事や趣味、子育てにもそれぞれがちゃんと自分の意志で、自分の世界を構築していて、しっかりと立っている。それがとても頼もしく、よ〜し、私ももういっちょ頑張らねば!と久々に清々しい気持ちにさせてもらいました。

友達自慢がまたまた長くなってしまいましたが、その場で感じたのは、やはり女は強く逞しい、そしてそういう女たちは(いくつになっても)美しい!ということ。


■ オフィーリアを探して


話は変わって、ちょうど1年前のロンドン。地下鉄のミルバンク駅から歩くこと数分。私はひとりの女性に会いに行きました。場所は、テート美術館。



テート美術館は、ナショナル・ギャラリーの
分館として、なんと監獄の跡地に建てられました。


ところが、居るはずの場所に彼女がいません。おかしいなあ、もしや?と思い、テートの受付にいた青年に声をかけました(金髪の美青年と女性の二人がいましたが、もちろん迷わず金髪美青年を選びます)。

「オフィーリアはどこですか?」と尋ねると、美青年は、「オフィーリアはいまアメリカだよ」。「ア、アメリカ…?」私がショックのあまり呆然としていると、美青年は「そして、その後は日本の森美術館に行くよ」と、残念だったね、と言いたげな表情でニヤリと笑いました。

そう、お気づきの通り、私が会いに行ったのは世界的名画の主人公。いや、世界的名「劇」のヒロイン、といったほうが正しいかもしれません。シェイクスピアの『ハムレット』に登場するハムレットの恋人、オフィーリアです。

実は、この作品をめぐってはこのようなすれ違いが幾度もあり、ようやくこのたび森美術館(正確には森アーツセンターギャラリー)で会うことが出来たのでした。


■ 薄幸の美女


シェイクスピアの四大悲劇の一つ『ハムレット』といえば、父を叔父に殺され、その叔父と母がすぐに再婚したことに苦悩するデンマーク王子ハムレットの物語です。

はっきりいって、何をモヤモヤ悩んでいるんじゃ!男だろ!と喝を入れたくなるほど、モヤモヤ気質のハムレットに苛立つ私ですが、実はハムレットよりも不幸だったのはこのオフィーリアではないかと思うのです。

あいつはやめておけ、と金持ちボンボンに娘が弄ばれるのを心配するどこかのお父さんのように、彼女の父と兄は、恋に舞い上がるオフィーリアをハムレットから引き離そうとします。

しかし、古今東西、恋する乙女はそんなこと聞いちゃいない。

やがて、何だかんだと悩み苦しむハムレットにオフィーリアはついに拒絶され(このハムレットの心理と行動も女からすれば意味不明)、おまけに父親をハムレットに殺されてしまいます。

そして、ついに心を病み、花冠を木の枝にかけようとしたところ川に落ちて死んでしまうのですが、実は劇中ではこの顛末についての場面は存在せず、ただハムレットの母である王妃ガートルードの台詞で語られるだけに過ぎません。


あの子がしだれ柳の枝にその花冠をかけようとよじ登ったとたんに、つれない枝は一瞬にして折れ、あの子は花を抱いたまま泣きさざめく流れにまっさかさま。

裳裾は大きく広がってしばらくは人魚のように川面に浮かびながら古い歌をきれぎれに口ずさんでいました、まるでわが身に迫る死を知らぬげに、あるいは水の中に生まれ、水のなかで育つもののように。

だがそれもわずかなあいだ、身につけた服は水をふくんで重くなり、あわれにもその美しい歌声をもぎとって、川底の泥のなかへ引きずりこんでいきました。

(ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』/小田島雄志訳/白水Uブックス/1983年)


ジョン・エヴァレット・ミレイ『オフィーリア』(1851年-52年)
(テート美術館/ロンドン)



この絵は、『ハムレット』のできれば原作を、少なくとも上記の王妃の台詞をふまえて鑑賞するのがオススメです(原作は様々な訳が出ていますが、個人的には小田島雄志先生のものが好きです)。

それにしても、オフィーリアの死は、事故なのか自殺なのか。王妃の台詞では事故のようですが、さらに読み進めると自殺ともとれる箇所があったりして、いやはやシェイクスピアは奥が深い。

そして見る者を惹き付けてやまないのが、このオフィーリアの表情。



ジョン・エヴァレット・ミレイ『オフィーリア』(部分)


迫る死の瞬間を知ってか知らずか、歌を口ずさみながら、流されてゆく表情のリアルさ。

しかし、私には、狂気の中にありながらも、苦難に満ちたこの人生が終わることに対する安堵の表情にも見えます。

実はミレイは、モデルを実際にバスタブに浮かべながらこの絵を制作しました。モデルとなったのが、エリザベス・シダル、通称リジー。後にご紹介する画家ロセッティの妻となる人物で、自身も画家として作品を残しています(今回の展覧会で見ることができます)。なんとミレイは制作に没頭するあまり、バスタブのお湯の温度がぐんぐん下がるのも忘れ、シダルは肺炎寸前に。

彼女はここでは一命を取り留めますが、やがてロセッティの女癖の悪さに精神を病み、アヘンの過剰摂取で32歳の若さで亡くなりました。

オフィーリアに引き寄せられるかのような運命を辿ったシダル。オフィーリアの苦しみや悲しみに無意識に共鳴し(てしまっ)たからこそ、生まれた傑作なのかもしれません。

また、この絵に描かれている花々は実は季節がバラバラなのですが、原作にないものも含め、悲劇を象徴する花言葉から意図的に配されています。

柳=見捨てられた愛、スミレ=誠実、純潔、若い死、芥子(ケシ)=死、パンジー=叶わぬ愛、わすれな草=私を忘れないで。

アヘンの原料である芥子が描かれているとは、なんとも不思議なシダルの運命を思わせます。


■ ラファエル前派とは


ジョン・エヴァレット・ミレイ『両親の家のキリスト(大工の仕事場)』(1849年-50年)
(テート美術館/ロンドン)


イギリスの文豪ディケンズに大批判を喰らった問題作。
聖家族をあまりにも日常的に描きすぎ、
且つ聖母が化け物のようだ、と酷評されました。


ジョン・エヴァレット・ミレイ『両親の家のキリスト(大工の仕事場)』(部分)
う〜ん、確かに眉間のシワといい、美女とは言いがたい。


1848年9月、それまでイタリアやフランスに比べ美術後進国であったイギリスに、美術史に燦然と輝く新たな潮流が誕生しました。

ロイヤル・アカデミーの美術学校に通う3人の学生が、アカデミーの体制を批判して自らの団体を立ち上げたのです。

その名も、Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエル前派兄弟団)、略してP.R.B.。学生たちの名は、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハント、そしてダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ。

アカデミーは、16世紀イタリア・ルネサンスの手法を最高峰と位置づけ、とりわけラファエロの表現方法を手本とし、長年、学生たちにその模倣を強いていました。

そこで「ラファエロ以前(Pre-Raphaelite)」の中世の表現に回帰しよう、というのが結成の目的です。(ちなみに「ラファエロ」はイタリア語読み、「ラファエル」が英語読み)


■ スキャンダラスな作品、そして…


ウィリアム・ホルマン・ハント『良心の目覚め』(1853年-54年)
(テート美術館/ロンドン)



ラファエル前派の作品といえば、女性がテーマの作品が多いことも一つの大きな特徴です。

前述のエリザベス・シダルとロセッティの関係もさることながら、仲間内の画家、評論家の間でモデルをめぐってくっついたり別れたり、わけがわからなくなるほど複雑な関係が繰り広げられたのも、ラファエル前派を語るに欠かせない要素です。

この作品は、裕福な男とその情婦を描いたもの。ケバケバしい部屋の男と女。床に投げ捨てられた手袋は、やがて彼女が捨てられる運命にあることを警告しています。

ピアノの楽譜には、改心を促す歌詞。そして、男の軽薄な誘いに、女は急に何かに目覚めたかのように男を拒絶して立ち上がります。

その手はしっかりと閉じ、窓の外の光を見つめています。それは人間の魂の扉をノックするキリストの「世の光」。彼女が過ちから救われることを暗示しています。



  ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)』
(1849年-50年)
(テート美術館/ロンドン)




一見したところ、病気の少女に少年がお見舞いに来たのかな?、と思ってしまうような光景。しかしこれはかの有名な「受胎告知」を描いたものです。

なるほど、よく見れば二人の頭上には麦わら帽子…ではなくて、これは聖人であることを表す金の輪っか。

余談ですが、聖人を描くにあたり、この金の輪っかを描かなかったために大論争になり、キリスト教会から作品の受け取りを拒否されたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ です。

また、純潔を表す百合を持っていることから、これは少年でなく大天使ガブリエル、そして少女でなく聖母マリアであると分かります。

ダ・ヴィンチはもちろん、ロセッティさえも現代を生きる我々からするともはや古典ですが、あたかも普通に存在する身近な人間として聖人を表現するということは、かなり大胆な試みだったのです。



ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『ベアタ・ベアトリクス』(1864年-70年頃)
(テート美術館/ロンドン)



ルネサンスが生んだ偉大な詩人ダンテ。ロセッティの父親はダンテの研究者であったことから、息子にその名をつけました。

この作品は、詩人ダンテの恋人ベアトリーチェを描いたもの。しかしダンテとベアトリーチェは結ばれることなく、ベアトリーチェは他の男と結婚し、その後若くして亡くなります。

ロセッティは、亡き妻エリザベス・シダルをベアトリーチェの姿に託しました。赤い鳥が届けるのは、またしても芥子(ケシ)。死と眠りを象徴しています。

手のひらで新しい生を受け止め、黄泉の国へと向かう亡き妻を描きながら、ロセッティは何を思ったのでしょうか。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『プロセルピナ』(1874年)
(テート美術館/ロンドン)



ローマ神話の女神プロセルピナを描いた作品。プロセルピナは、ある日、その美しさから冥府の王、プルートーに連れ去られてしまいます。

母である女神ケレスは天界の王ユピテルに娘を返してほしいと懇願し、ユピテルは彼女が何も口にしていないならば天界に戻すと約束をしますが、すでにプロセルピナはザクロをひと口かじってしまっていたのです。

仕方なくユピテルは、1年の半分を冥界で夫のプルートーと暮らし、半分を天界で母と暮らすよう調停しました。

プロセルピナが天界にいるときは、地上は春となり大地が潤い、冥界にいるときは大地は凍え冬になる、というわけです。

■ 弱き者、汝の名は…


ところで、このプロセルピナのモデルは、ロセッティの愛人、ジェイン。あらら、ロセッティって、さっきエリザベス・シダルという亡き妻を偲んだ絵を描いてましたよねぇ?、と思わずツッコミを入れたくなります。

おまけにジェインの夫は、ラファエル前派の第二世代の中心人物でアーツ・アンド・クラフツ運動の創始者ウィリアム・モリス。モリスと自分のところで半々の生活を送るジェインをプロセルピナになぞらえて描いたというから、まったく男というやつは…。

『ハムレット』の中で、父亡き後すぐに叔父と再婚した母に失望し、ハムレットが「弱き者、汝の名は女…」とつぶやく名セリフがありますが、思わず「弱き者、汝の名は男…」と言いたくなるようなエピソードです。


作品と同じくらいスキャンダラスだったラファエル前派とそれを取り巻く男と女。誘惑という名の果実に弱いのは、男も女も同じかもしれません。

それにしてもエリザベス・シダルは、酒と薬に溺れる前に女子会でも開いて憂さを晴らしたらよかったのに。



テート美術館の至宝
ラファエル前派展
英国ヴィクトリア朝絵画の夢

2014年1月25日(土)−4月6日(日)
森アーツセンターギャラリー(東京)


      

       


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2014年1月18日土曜日

Bonne année! -新年によせて-

■ 恒例の富士山から


とっくに年は明けてしまいましたが、あけましておめでとうございます!



元旦の富士山。祝!世界遺産!恒例の河口湖の某温泉から。
毎年新年早々、親しい友人たちに撮りたてを送り「ウザうれしい」と好評(?)です。


■ 「人生を半分あきらめて生きる」ということ


のんびり新年を満喫していたら、いつの間にやら年が明けて早三週間。年が明けるということは、旧い自分を清算して新たに生まれ変われる気がして、清々しく気分がよいものです。今年は○○をやるぞ〜!と叶えたいことを思い描いた方も多いことでしょう。

さて、そんな方にいきなり水を差すようで申し訳ないのですが、新年早々に衝撃的な本に出会いました。その名も『人生を半分あきらめて生きる』(幻冬社新書/2012年)。明治大学文学部で心理学の教鞭をとる諸富祥彦氏の著書です。

このタイトルを見て、あなたはどう思いましたか?

なんとネガティブな!あきらめるなんて言葉は自分の辞書にない!…という方、あなたは大変幸せなかたです。きっといままで望んだものはほとんど手に入れてきたことでしょう。

どうぞそのまま24時間、365日、ポジティブに、情熱的に生きていってください。そして多分、今日の記事はあまりお役に立てないと思うので、また次回お会いしましょう。

それに対して、むむむっ、なんかちょっといいことが書いてありそうだぞ、というあなた。ぜひご一読をおすすめします。

私などは、このタイトルを見ただけで「あ、そっか。半分あきらめていいんだ」となぜか心が軽くなりました。

今日の日本は自由に見えて、実は不自由な社会です。つまり資本主義、自由主義に基づいて職業が自由に選択できる、夢を見ることは素晴らしい、がんばれ、がんばれ、と世間は鼓舞して無限の可能性を提示するけれど、現実は、超一流大学を卒業しても、正社員になることさえ難しい縮小社会。夢を見て破れた人の受け皿はありません。

そして、その結果を個人の選択に誤りがあったとして、「自己責任」という名で、個人に押し付ける社会。

こんな現在の日本で、夢を見て、夢を叶えて、それで食べていける人がいったいどれだけいるのか。

それなのに「がんばれ教」や「あきらめるな教」が氾濫している。この空虚で、無責任なポジティブシンキングに疲れている人が驚くほど多い世の中なんだとか。

しゃかりきにがんばることに疲れたら、思い描く「理想の自分」はちょっと脇に置いておいて、うまくいかないことから少し離れて様子を見てみる。そうしてまた力が湧いてきたら向き合えばいいし、必要がないものだったら手放す。この本を読んで、私なりに解釈した「あきらめる」とはそんな感じ。

でもこれって、実はいまの時代を生き抜く超ポジティブでハッピーな考え方なんじゃないかと思います。


■ ルノワールが描いた「幸せ」とは


ところで、多くの印象派絵画の舞台である19世紀のフランス社会は、アンシャンレジーム(旧体制)がいくつかの革命を経て形式上は崩壊したものの、ブルジョワという新たな「貴族」が登場した時代です。

2013年12月6日付記事「カイユボット展」にも書きましたが、ブルジョワは死ぬまでブルジョワ、労働者もまた然り。現代の日本は、見かけ上の極端な身分差はないものの、現実は格差社会であり、この点においてはこの時代のフランスと変わらないような気もします。

19世紀のフランスと現代の日本とのもっとも大きな違いは、個人に選択肢があるかないか。現代の日本はあらゆる事象において選択の自由が個人に委ねられています。ただし「自己責任」という重いくびき付きで。

無限の選択肢がある(ように見える)から、ベストアンサーを求めていつまでも彷徨ってしまう。どこまでいっても、いつまでたっても、何をやっても満足が得られない。

ひょっとしたら、無限の可能性と選択肢を与えられるということは、必ずしも人間を幸せにするとは限らないのかもしれません。


ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年)
(オルセー美術館/パリ)



一見すると、華やかに着飾った男女。帽子をかぶり、上流階級の男女がダンスを楽しむ風景に見えます。ところが、この絵の主人公たちは皆、下層階級の労働者たち。絵の舞台は、今もパリのモンマルトルにある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というレストランの庭です。


「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とは「粉挽きの風車」という意味。


絵の中の若者たちは、毎日の過酷な労働を忘れるかのごとく、束の間の余暇を楽しんでいます。

この時代の労働者を描いた絵画は山ほどありますが、ルノワールはその悲惨な現実を敢えて「光」と「鮮やかな色彩」で覆い隠し、幸福そのものといった作品で人々に希望を与えたのです。

苦しみがあるから、愉しみが倍増する。生まれながらにしてそこそこの「お金」と「自由」を持った現代の日本人には麻痺してしまった感覚です。

この絵の主人公たちよりずっと豊かで、自由で、幸せなはずの現代日本人が、それを感じられなくなっているというこの現実は何を物語っているのでしょうか。

まさに「幸せ」とはなにか、を考えさせられる一枚です。



レストラン「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」にて。
このドアの向こうに絵の舞台があります(現在はかなり小さくなっていますが)。


さて、今年も素晴らしい美術展が目白押し!新年早々、(私にとって)曰く付きの、待望の、あの絵がやってきます!





どう曰く付きなのかというと…乞うご期待!




↓ ↓ いつもありがとうございます。引き続き、今年もよろしくお願いいたします!


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2013年12月31日火曜日

Saint-Sylvestre -大晦日によせて-

先日参加した、とあるセミナーでのこと。講師に、「この部屋の中で赤いものを探してください」と言われ、私は必死で赤いものを探しました。「では、目を閉じてください」と講師。「この部屋にあった黄色いものを思い出してください」。

ええっ、赤って言ったじゃん!と動揺しながら思い出そうとするものの、私はまったく思い出せませんでした。目を開けて、部屋を見渡すと至る所に黄色があふれていたのは言うまでもありません。

人は意識をしていないと、見るべきものを見落としてしまう、ということを身をもって経験した出来事でした。

人生すべてに於いて同じことが言えます。ここは西洋絵画のブログですから、もっとミクロな視点で言うと、絵画についても同じです。たかが絵、されど絵。描かれた絵にまつわるエピソードや画家の人生を知って見るのと知らないで漠然と見るのでは、見え方が全く違うのです。

桜も咲きはじめようという今年3月、まさかのインフルエンザになり、療養中に暇を持て余して始めたのがこのブログでした。

当初は、ごく身近な人に自分の意外性を知らしめ驚かせてやろう、フフフ…というかなり邪な気持ちで始めたのですが、意外なことに多くの方々に読んでいただく結果となり、驚きと感謝でいっぱいです。

途中から加わったブログランキングでは、あれよあれよと言う間にトップテン入りし、ついに今月24日(クリスマスイヴ!)には何とランキング1位に。

人生とは本当に何が起こるかわからない、素敵なものです。

実は、忙しさのあまり掲載できずにお蔵入りした展覧会もかなりあります。それだけがちょっぴり心残りなのですが。

新しく来る年も、みなさんにとっても、私にとっても、色んなことが起こるでしょう。日々訪れる選択肢が、チャンスなのかトラップなのか、一見分かりにくいのが人生。チャンスの姿をしたトラップだったり、嵌められた!と思って抜け出す努力するうちに、いつの間にか前よりずっと素晴らしいものを手にしていたり。

心の目を研ぎ澄まし、しっかりアンテナを張って、見るべきものを見落とさないようにしたいものです。

ブログを読んで下さった皆様、まさに見えないところで支えてくださって本当にありがとうございました。

新しい年も、皆様にとって素晴らしい奇跡(=「天使の翼」)が舞い降りることを心からお祈りしております。


ラファエロ・サンティ『システィーナの聖母』(部分)(1513年〜1514年)
(アルテ・マイスター絵画館/ドレスデン)


よいお年を〜!



↓ ↓ ご愛読ありがとうございました。引き続き、来年もよろしくお願いいたします!


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2013年12月23日月曜日

The aroma story -クリスマスによせて-

贈り物を抱えた人々がせわしなく行き交う季節がやってきました。澄んだ空気でいっそう街がキラキラして、慌ただしいけれど街全体にあふれるこのワクワク感は、クリスマスならでは。東京も華やかなネオンがあふれていますが、ヨーロッパの街を見ていると、クリスチャンにとってのクリスマスには特別な意味を感じます。

■ ドレスデンのクリスマスマーケット


今回はまず、数年前に訪れたドイツはドレスデンのクリスマスマーケットをご紹介します。


パリやニューヨークのような華やかさはないものの、静謐な感じ。


聖母教会前の広場にはこのようなお店がたくさん並びます。




ドレスデンのクリスマスマーケットは世界的に有名で、この時期になると日本でもツアーパンフレットができるほど。まるで日本の夏祭りの露店のように、小さな店々が並びます。お店には、ツリーや家の中で飾るオーナメントなど、クリスマスを迎えるためのグッズが所狭しと並びます。

アイテムを見てみると、キャンドルホルダーなどお手頃価格のかわいいグッズもあれば、テーブルクロスなど、露店といえど、かなりしっかりした素材と価格のものもあります。それでも日本で購入するよりずっと安く質の良いものがあったので、私はお手頃ゾーンから高級ゾーンにまで手を伸ばし、当然スーツケースはパンパンで帰ってきました。

普段アジア人はあまりいない街なので、クリスマスシーズンといえども日本人は珍しかったらしく、お店のおばちゃんと仲良くなって、ちゃっかりおまけをもらったり、楽しさ満点でした!



サンタさんが踊ってる〜!と思ったら、人形でした。



買い物に疲れたら、マーケットの中にあるスタンディングバーのホットワインでひと息。



カップも、めっちゃカワイイ。


■ 『東方の三博士』っていったい何者?


さて、やはり「美術館めぐり」のブログですから、クリスマスならではの絵をご紹介しましょう。

…で、世に数多ある同名の作品の中でもせっかくですのでドイツの画家を選んでみました。


アルブレヒト・デューラー『東方三博士の礼拝』(1504年)
(ウフィツィ美術館/フィレンツェ)



星の動きから、救世主イエス・キリストが生まれたことを知った三人の賢者が貧しい厩を訪れ、祝福をする場面です。ボッティチェリやルーベンスなど、数多くの画家が描いたテーマですが、そもそもこの賢者とか、博士などと呼ばれているこの人たちは一体何者なのでしょうか。そして、なぜわざわざオンボロの厩に仰々しく現れて、一体何をしているところなのでしょう。この絵と題名にはそんな疑問が沸き起こります。

まず、賢者あるいは博士と呼ばれているこの人たちはペルシャの「マギ」です。「マギ」とは占星術師のこと。しかし、彼らは現代の占星術師とは意味が違い、天候に左右されやすかった農耕社会を支える最先端の科学者であり天文学者なのです。

そんなお偉い先生方が、ある日、天文現象からこの世にユダヤの王が生まれたことを知ります。えらいこっちゃ、お祝いに馳せ参じなければ。ということで、星の導くままに訪れたのが、エルサレムの地。

まず一行は、この地を治めるヘロデ大王の元に行き、お祝いを述べ、ユダヤの王はどこにいるかと尋ねます。しかし、ヘロデ大王にとっては寝耳に水。ユダヤの王が生まれただと?王が自分あるいは自分の子孫以外であってはならない!と驚き慌てますが、何食わぬ顔で、予言者を招集し、場所を占わせ、ベツレヘムだと教えました。そして、私も拝みたいのでその子を見つけたらぜひ自分にも教えてほしい、と博士たちに頼みます。

こうして何も疑うことなく博士たちは頷き、ベツレヘムに向かいます。ヘロデ王の思惑に微塵も疑うことなく…

■ クリスマスプレゼントのルーツ


そして、博士たちが無事に到着し、贈り物をしている場面がこれらの絵に描かれているのです。

神の国の栄光を表す「黄金」を捧げているのが青年メルキオール、神性を表す「乳香」は壮年のバルタザール、受難と死を予感させる「没薬」は老人ガスパール、と後世になってそれぞれ名前までつけられています。ちなみに「没薬」を老人ガスパール博士が捧げている図が、たいていお約束。

三博士は、それぞれアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸になぞらえているとの説もあります。(つまり世界中がイエス・キリストを救世主と崇めていると、キリスト教は言いたいのですね)


アルブレヒト・アルトドルファー『東方三博士の礼拝』(1530年〜35年)
(シュテーデル美術館/フランクフルト・アム・マイン)




さて、クリスマスプレゼントのルーツともいわれるこの贈り物たちについて見てみましょう。「黄金」はさておき、「乳香」「没薬」って何なんでしょうか。

実はこの二つ、現代のアロマテラピーにも欠かせないものなのです。

まず、「乳香」とは、別名フランキンセンスまたはオリバナムとも呼ばれます。フランキンセンスは、カンラン科の樹脂で、古代エジプトやインド、中国で古くからお香に使われてきました。

また細胞成長促進作用や収れん作用があるため(つまり新陳代謝を高め、引き締め効果があるということですね)古代エジプトでは美容にも用いられました。

現代でも、アンチエイジングコスメとして、商品化されているものもたくさんあります。(全く余談ですが、私も、化粧水、美容液、クリームすべてフランキンセンスのオーガニックコスメを愛用しています)

次に、「没薬」ですが、これは別名ミルラともいい、皆さんよくご存知のアレを作るのに古代エジプトで重用されました。

古代エジプトといえば…ピラミッド!と言いたいところですが、ここではミイラです。ミルラという名前からも想像できますね。

ミルラもカンラン科の樹脂ですが、殺菌、消毒、防腐作用に優れており、ミイラ作りにはもちろん、フランキンセンスと同様に古くからお香やスキンケアにも用いられてきました。

…というわけで、今回はいつか書きたいと思いつつ、なかなか実現しなかった絵画とアロマの意外な小話をご紹介させていただきました。

さ〜て、今宵もフランキンセンスのクリームをガッツリ塗って寝なくっちゃ〜♪



Frohe Weihnachten!
(メリークリスマス!)



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2013年12月6日金曜日

カイユボット展

■ 無名の巨匠


ギュスターヴ・カイユボット、と聞いて「ああ、カイユボットね」と即答できる人はかなりの西洋絵画ツウです。初めてこの名前を聞いたというアナタ、恥ずかしがることはありません。それが普通です。



ブリヂストン美術館にて開催中の『カイユボット展』。


1874年、パリのオペラ座前を今も多くの人が行き交うカプシーヌ大通りの写真家ナダールのスタジオで、第1回印象派展は開かれました。

神話や歴史をテーマとした絵画が最も価値あるものとする画壇に反発して、無審査で開かれた展覧会です。メンバーは、モネ、ルノワール、セザンヌ、ドガ、シスレーなど。

世間が度肝を抜く斬新な作品の数々に深く共鳴したひとりの男がいました。

男の名は、ギュスターヴ・カイユボット。父親が繊維業で莫大な財を成したブルジョワの家に生まれ、自身もまたエコール・ド・ボザール(官立美術学校)を卒業した画家でした。



『ギュスターヴ・カイユボットの肖像』(撮影者不明)




カイユボットはルノワールを始めとする印象派のメンバーと交流を重ね、第2回目から印象派展に出品しています。通算8回にわたり開かれた印象派展ですが、カイユボットはそのうち実に5回に出品しています。

れっきとした印象派画家であるにもかかわらず、他のメンバーに比べ知名度が著しく低いのはなぜでしょう。

カイユボットは自身の作品づくりに仲間から大きな影響を受けながら、一方でその財力を活かして、生活に困窮している仲間の絵を次々に購入していきました。

カイユボットの名は知らずとも、オルセー美術館はご存知の方も多いはず。

オルセー美術館といえば、印象派のコレクションが有名ですが、実はそれらの作品は元々カイユボットが所有していたものです。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も、ドガの『エトワール』も。



ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年)
(オルセー美術館/パリ)



エドガー・ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』(1878年頃)
(オルセー美術館/パリ)



※上記2作品は今回の展覧会に展示されていません。




絵を見る前に、お腹が空いたので先にランチ(笑)。


記録によると、カイユボットはモネに前渡金として5年の間に合計1千万円もの援助をしています。

こうしたパトロンかつコレクターとしての要素が大きく、画家として再評価されたのは1990年代に入ってからです。作品を売らなくても生活には不自由がなかったので、多くの人の目に触れる機会がなかったことも、評価が遅れた理由のひとつといわれています。


■ ブルジョワジーと労働者、時代を描いた画家


19世紀のフランスにおける階級社会は、現代日本を生きる我々には想像を絶する格差社会です。

貴族に代わって登場したブルジョワジーは、産業革命の恩恵を受けて桁外れの富を享受し、一方、労働者階級に生まれたが最後、厳しい労働と最低限の賃金でその日を暮らすのもやっと、貧困と病に蝕まれて一生を終えるのです。



ギュスターヴ・カイユボット『ヨーロッパ橋』(1876年)
(プティ・パレ美術館/ジュネーヴ)



この作品は、まさにそのような社会の縮図です。

厳しい労働の合間に橋の下のサン=ラザール駅を見下ろす若い労働者。蒸気機関車が走るこのサン=ラザール駅こそ産業革命の産物であり、近代化の証でもあります。新しい時代の富を享受し楽しそうに歩くブルジョワのカップル(女性は娼婦だという説もあり)。男性のモデルはカイユボット自身と言われています。そして彼らと逆方向に歩いていく老人は、まさに去りゆく時代の象徴です。

■ 写真と印象派



カイユボットの作品の特徴は、当時流行し始めた写真に影響を受けています。上の作品も、まるで広角レンズで撮った写真のような橋の骨組みです。実はカイユボットの弟マルシャルは音楽家であり、写真家でした。



ギュスターヴ・カイユボット『ピアノを弾く若い男』(1876年)
(石橋財団ブリヂストン美術館/東京)




弟マルシャルはパリの官立高等音楽院(コンセルヴァトワール)を卒業した音楽家。
ドビュッシーなど著名な音楽家とも交流がありました。



マルシャル・カイユボット
『ギュスターブ・カイユボットと犬のベルジェール、カルーゼル広場、1892年2月』
(1892年)


弟マルシャルが撮ったカイユボットと愛犬。


■ 近代化がもたらしたもの


近代化が生み出した都市の生活は、人間関係、家族関係の在り方にも大きな変化をもたらしました。大家族から核家族化が進み、都市生活者に孤独感が漂い始めたのもこの時代の特徴ともいえます。



ギュスターヴ・カイユボット『昼食』(1876年)
(個人蔵)




上はカイユボット邸を描いたもの。母と執事と、のちに26歳で急逝する弟ルネが囲む食卓。逆光の食卓はどこか寂しげに見えます。

この作品に影響を受けてジョルジュ・スーラが点描で表現した作品については、11月24日付記事『印象派を超えて—点描の画家たち』をご参照ください。


ギュスターヴ・カイユボット『室内—窓辺の女性』(1880年)
(個人蔵)


瀟洒なアパルトマンの一室。
倦怠期を迎えた夫婦の、冷ややかな関係を表現しています。



ギュスターヴ・カイユボット『パリの通り、雨』(1877年)
(マルモッタン・モネ美術館/パリ)




シカゴ美術館にある同名の作品の習作。
写真のフレーミングを構図に取り入れた作品。


近代化はパリの人口増加を招き、1853年〜70年にかけて街の大改造が行われました。いわゆるパリ大改造です。この計画を指揮したのが、セーヌ県知事オスマン。それまでのパリは小さな路地が複雑に入り組み、汚物が散乱する不衛生極まりない都市でした。

余談ですが…マリー・アントワネットは逃亡する際に恋人フェルゼンが道を間違えまくり、時間がかかり過ぎたために捕まったとか。フェルゼンは頭のいい男で綿密に道を調べ上げたにも関わらず、間違えるほど路地は複雑でした。フランス革命の前に大改造が行われていたら歴史は変わっていたかも!



ギュスターヴ・カイユボット『オスマン大通り、雪景色』(1879年または1881年)
(フレール城館美術館)





壊し屋と呼ばれたオスマンは、シャンゼリゼ通りに代表されるように道幅を広くし、街路樹を植え、美しい街並を造営しました。凱旋門の展望台から今も見渡すことができる放射状に伸びる大通りは、この大改造によるものです。

建物についても厳しい基準が設けられました。高さを制限し、屋根の色は灰色、バルコニーは特定の階に設置するなど、いわゆるオスマン様式と呼ばれる建物が次々と現れ、現在とほとんど変わらぬパリの街並ができあがったのです。



ギュスターヴ・カイユボット『見下ろした大通り』(1880年)
(個人蔵)


オスマン大通りの自宅アパルトマンから見下ろした風景。
当時の絵画ではあり得ない大胆な構図です。


■ パリからイエールへ


都市の風景を描く画家としての印象が強いカイユボットですが、パリ郊外のイエールに所有する夏の別荘を舞台に、田園や水辺の風景、船遊びなどを描いた作品も残しています。


ギュスターヴ・カイユボット『ペリソワール』(1877年)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー/ワシントンD.C.)


連続写真のように、奥から手前に、一人の主人公の時間の経過を表現した作品。
ペリソワールとは、一人乗りカヌーのこと。


1880年代に入ると、パリを離れこのイエールの別荘で議員を務める傍らガーデニングなどに興じる日々を過ごします。公務に忙殺され次第に絵筆をとることも少なくなり、畑仕事の最中、突然倒れ45歳の短い人生を終えます。

実はカイユボットは、28歳ですでに遺書をしたためていました。彼の遺言は、「自分の集めた印象派のコレクションをルーヴル美術館に寄贈してほしい」。

遺族が寄贈を申し出ても国はすぐにこれらを受け入れませんでした。印象派そのものの評価がまだ認められていなかったのです。

交渉から3年の月日を経てようやく半数が受け入れられました。

オルセー美術館は、ルーヴル美術館から1986年に独立した新しい美術館で、原則として1848年〜1914年までの作品を収蔵することになっています。

ゆえに印象派のカイユボットコレクションはオルセー美術館で見ることができるのです。



京橋駅地下に新しいカフェを発見。
カイユボットが描いた風景をパリの古地図で確認。
我ながら暗い趣味だなぁ…


今回のカイユボット展は、日本初の回顧展です。2014年、カイユボットの没後120年にあたり、イエールの別荘で回顧展が開かれますが、イエールは遠い!

ぜひこの機会にお見逃しなく。





都市の印象派
カイユボット展

2013年10月10日(木)−12月29日(日) 石橋財団ブリヂストン美術館(東京)



      

       

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