2013年12月6日金曜日

カイユボット展

■ 無名の巨匠


ギュスターヴ・カイユボット、と聞いて「ああ、カイユボットね」と即答できる人はかなりの西洋絵画ツウです。初めてこの名前を聞いたというアナタ、恥ずかしがることはありません。それが普通です。



ブリヂストン美術館にて開催中の『カイユボット展』。


1874年、パリのオペラ座前を今も多くの人が行き交うカプシーヌ大通りの写真家ナダールのスタジオで、第1回印象派展は開かれました。

神話や歴史をテーマとした絵画が最も価値あるものとする画壇に反発して、無審査で開かれた展覧会です。メンバーは、モネ、ルノワール、セザンヌ、ドガ、シスレーなど。

世間が度肝を抜く斬新な作品の数々に深く共鳴したひとりの男がいました。

男の名は、ギュスターヴ・カイユボット。父親が繊維業で莫大な財を成したブルジョワの家に生まれ、自身もまたエコール・ド・ボザール(官立美術学校)を卒業した画家でした。



『ギュスターヴ・カイユボットの肖像』(撮影者不明)




カイユボットはルノワールを始めとする印象派のメンバーと交流を重ね、第2回目から印象派展に出品しています。通算8回にわたり開かれた印象派展ですが、カイユボットはそのうち実に5回に出品しています。

れっきとした印象派画家であるにもかかわらず、他のメンバーに比べ知名度が著しく低いのはなぜでしょう。

カイユボットは自身の作品づくりに仲間から大きな影響を受けながら、一方でその財力を活かして、生活に困窮している仲間の絵を次々に購入していきました。

カイユボットの名は知らずとも、オルセー美術館はご存知の方も多いはず。

オルセー美術館といえば、印象派のコレクションが有名ですが、実はそれらの作品は元々カイユボットが所有していたものです。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も、ドガの『エトワール』も。



ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年)
(オルセー美術館/パリ)



エドガー・ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』(1878年頃)
(オルセー美術館/パリ)



※上記2作品は今回の展覧会に展示されていません。




絵を見る前に、お腹が空いたので先にランチ(笑)。


記録によると、カイユボットはモネに前渡金として5年の間に合計1千万円もの援助をしています。

こうしたパトロンかつコレクターとしての要素が大きく、画家として再評価されたのは1990年代に入ってからです。作品を売らなくても生活には不自由がなかったので、多くの人の目に触れる機会がなかったことも、評価が遅れた理由のひとつといわれています。


■ ブルジョワジーと労働者、時代を描いた画家


19世紀のフランスにおける階級社会は、現代日本を生きる我々には想像を絶する格差社会です。

貴族に代わって登場したブルジョワジーは、産業革命の恩恵を受けて桁外れの富を享受し、一方、労働者階級に生まれたが最後、厳しい労働と最低限の賃金でその日を暮らすのもやっと、貧困と病に蝕まれて一生を終えるのです。



ギュスターヴ・カイユボット『ヨーロッパ橋』(1876年)
(プティ・パレ美術館/ジュネーヴ)



この作品は、まさにそのような社会の縮図です。

厳しい労働の合間に橋の下のサン=ラザール駅を見下ろす若い労働者。蒸気機関車が走るこのサン=ラザール駅こそ産業革命の産物であり、近代化の証でもあります。新しい時代の富を享受し楽しそうに歩くブルジョワのカップル(女性は娼婦だという説もあり)。男性のモデルはカイユボット自身と言われています。そして彼らと逆方向に歩いていく老人は、まさに去りゆく時代の象徴です。

■ 写真と印象派



カイユボットの作品の特徴は、当時流行し始めた写真に影響を受けています。上の作品も、まるで広角レンズで撮った写真のような橋の骨組みです。実はカイユボットの弟マルシャルは音楽家であり、写真家でした。



ギュスターヴ・カイユボット『ピアノを弾く若い男』(1876年)
(石橋財団ブリヂストン美術館/東京)




弟マルシャルはパリの官立高等音楽院(コンセルヴァトワール)を卒業した音楽家。
ドビュッシーなど著名な音楽家とも交流がありました。



マルシャル・カイユボット
『ギュスターブ・カイユボットと犬のベルジェール、カルーゼル広場、1892年2月』
(1892年)


弟マルシャルが撮ったカイユボットと愛犬。


■ 近代化がもたらしたもの


近代化が生み出した都市の生活は、人間関係、家族関係の在り方にも大きな変化をもたらしました。大家族から核家族化が進み、都市生活者に孤独感が漂い始めたのもこの時代の特徴ともいえます。



ギュスターヴ・カイユボット『昼食』(1876年)
(個人蔵)




上はカイユボット邸を描いたもの。母と執事と、のちに26歳で急逝する弟ルネが囲む食卓。逆光の食卓はどこか寂しげに見えます。

この作品に影響を受けてジョルジュ・スーラが点描で表現した作品については、11月24日付記事『印象派を超えて—点描の画家たち』をご参照ください。


ギュスターヴ・カイユボット『室内—窓辺の女性』(1880年)
(個人蔵)


瀟洒なアパルトマンの一室。
倦怠期を迎えた夫婦の、冷ややかな関係を表現しています。



ギュスターヴ・カイユボット『パリの通り、雨』(1877年)
(マルモッタン・モネ美術館/パリ)




シカゴ美術館にある同名の作品の習作。
写真のフレーミングを構図に取り入れた作品。


近代化はパリの人口増加を招き、1853年〜70年にかけて街の大改造が行われました。いわゆるパリ大改造です。この計画を指揮したのが、セーヌ県知事オスマン。それまでのパリは小さな路地が複雑に入り組み、汚物が散乱する不衛生極まりない都市でした。

余談ですが…マリー・アントワネットは逃亡する際に恋人フェルゼンが道を間違えまくり、時間がかかり過ぎたために捕まったとか。フェルゼンは頭のいい男で綿密に道を調べ上げたにも関わらず、間違えるほど路地は複雑でした。フランス革命の前に大改造が行われていたら歴史は変わっていたかも!



ギュスターヴ・カイユボット『オスマン大通り、雪景色』(1879年または1881年)
(フレール城館美術館)





壊し屋と呼ばれたオスマンは、シャンゼリゼ通りに代表されるように道幅を広くし、街路樹を植え、美しい街並を造営しました。凱旋門の展望台から今も見渡すことができる放射状に伸びる大通りは、この大改造によるものです。

建物についても厳しい基準が設けられました。高さを制限し、屋根の色は灰色、バルコニーは特定の階に設置するなど、いわゆるオスマン様式と呼ばれる建物が次々と現れ、現在とほとんど変わらぬパリの街並ができあがったのです。



ギュスターヴ・カイユボット『見下ろした大通り』(1880年)
(個人蔵)


オスマン大通りの自宅アパルトマンから見下ろした風景。
当時の絵画ではあり得ない大胆な構図です。


■ パリからイエールへ


都市の風景を描く画家としての印象が強いカイユボットですが、パリ郊外のイエールに所有する夏の別荘を舞台に、田園や水辺の風景、船遊びなどを描いた作品も残しています。


ギュスターヴ・カイユボット『ペリソワール』(1877年)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー/ワシントンD.C.)


連続写真のように、奥から手前に、一人の主人公の時間の経過を表現した作品。
ペリソワールとは、一人乗りカヌーのこと。


1880年代に入ると、パリを離れこのイエールの別荘で議員を務める傍らガーデニングなどに興じる日々を過ごします。公務に忙殺され次第に絵筆をとることも少なくなり、畑仕事の最中、突然倒れ45歳の短い人生を終えます。

実はカイユボットは、28歳ですでに遺書をしたためていました。彼の遺言は、「自分の集めた印象派のコレクションをルーヴル美術館に寄贈してほしい」。

遺族が寄贈を申し出ても国はすぐにこれらを受け入れませんでした。印象派そのものの評価がまだ認められていなかったのです。

交渉から3年の月日を経てようやく半数が受け入れられました。

オルセー美術館は、ルーヴル美術館から1986年に独立した新しい美術館で、原則として1848年〜1914年までの作品を収蔵することになっています。

ゆえに印象派のカイユボットコレクションはオルセー美術館で見ることができるのです。



京橋駅地下に新しいカフェを発見。
カイユボットが描いた風景をパリの古地図で確認。
我ながら暗い趣味だなぁ…


今回のカイユボット展は、日本初の回顧展です。2014年、カイユボットの没後120年にあたり、イエールの別荘で回顧展が開かれますが、イエールは遠い!

ぜひこの機会にお見逃しなく。





都市の印象派
カイユボット展

2013年10月10日(木)−12月29日(日) 石橋財団ブリヂストン美術館(東京)



      

       

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